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■風呂の歴史 一口メモ

 我々、日本人は世界屈指の風呂好きな民族だという。

確かにそう言われて見ると、自宅の風呂だけでなく、家族や仲間たちと温泉などに行って、食べたり飲んだりして楽しい時間を過ごす、という楽しみ方を普通にしているけど、外国の友人たちを温泉などに誘っても、予想外の反応をされたり、という経験をした方も多いと思う。

一体我々の風呂好きは、どこから来ているのか、など調べてみると、たくさんの色んなことが判りましたので、以下参考にしてください。

世界・古代の風呂
ヨーロッパ・中世以降の風呂
日本の風呂の歴史
中国・台湾の風呂について

 ● 世界・古代の風呂
 風呂の起源として現在確認されているものでは、
紀元前4000年頃メソポタミアで、清めの沐浴のための浴室が作られ、
紀元前2000年頃には薪を使用した温水の浴室が神殿に作られていた。

同時にギリシアでは、現在のオリンピック精神の元となった「健全な精神は健全な肉体に宿る」との考えから、
紀元前4世紀頃のギリシャの都市には、スポーツ施設に併設して沐浴のための大規模な公衆浴場の水風呂が作られていた。
紀元前100年、ローマ帝国時代には、各植民都市に共同浴場が作られた。入浴様式は蒸し風呂の他に、広い浴槽に浸かる形式もあった。
217年につくられたローマのカラカラ大浴場は2000人以上が同時に入浴できたといわれている。古代ローマの入浴は、公営病院を持たなかったローマ人の感染予防施設としても使われた。
4世紀には更に大きなディオクレティアスの大浴場が作られ、単に風呂に入るだけでなくスポーツもでき、劇場や図書館もあって、周りに多くの飲食店が建てられていた。浴場は単なる風呂から一大文化センターへと変貌していった。
イギリスのバース(Bath)にある旧ローマ帝国の風呂跡
bathの語源にもなった(イギリス・バースのローマ風呂博物館)
ローマ帝国の時代には豪華な公衆浴場と、湯を沸かす際の熱を利用した床暖房設備が発達し、地中海世界では現在の日本でも見られるような、社交場としての男女混浴の公衆浴場が大衆化し、社交場・娯楽施設として楽しまれていた。その一方で売春の温床にもなったことから、ハドリアヌス帝の頃に男女別浴になった。

一方、中央アジアでは、紀元前1世紀ごろから蒸し風呂があったと思われる。これは、高温に加熱した石に水をかけることで蒸気を発生させて入浴を行った。燃料などが少なくて済み手軽に使用できたため、冷水による入浴に適さない地域で広まった。中東ではこの蒸し風呂が公衆浴場となった。またロシアや北欧に伝わりサウナの原型ともなった。古代ローマ帝国全土に広まった公共浴場は、イスラムによる北アフリカの地中海沿岸地方・シリア地方征服後、イスラム圏で保持され、中東・イランでは現代に至るまで続いている。公共浴場は、モスク・市場と並んでイスラム都市の基本構成要素となった。

しかし、キリスト教の浸透にともに、厳格な信者からは裸で集うというローマ式の入浴スタイルは退廃的とされ、敬遠されて廃れていった。ローマ帝国の領土を受け継いだヨーロッパの地では、13世紀頃までは、辺境の地であっても入浴習慣が普及していたが、教会に行くための清めとして、大きめの木桶に温水を入れて身を簡単にすすぐ行水の様なものだった。都市には公衆浴場があり、住民は週に1・2度程度、温水浴や蒸し風呂を楽しんだといわれる。しかし、男女混浴であったため、みだらな行為や売春につながり、それにキリスト教の観念が加わり廃れていった。それに拍車をかけるように、14世紀にはペストの流行により、公衆浴場はもちろんのこと、入浴自体も「梅毒やペストなどの伝染病の温床」というイメージも入浴を衰退させる原因になった。結果、キリスト教徒の間では入浴は享楽の象徴とされ忌み嫌われ、風呂の習慣自体が忌避され、地中海やヨーロッパ各地で公衆浴場の閉鎖令が出され、終には中世末のヨーロッパから風呂が消え、シャワーが主流になっていった。

一方、アラブ世界は砂漠の燃料と水の供給の問題で、蒸気風呂で汗を流しマッサージや垢擦りをする後のトルコ風呂「ハマーム」となり、17世紀中頃のイスタンブールに約15000も存在し、演劇まで行われる社交場として利用された。これが北欧やロシアに伝わりサウナとなったといわれる。

画家が描いたトルコ風呂 (ドミニク・アングル作)
トルコ風呂の様子


ヨーロッパ・中世以降
中世ヨーロッパ(特にフランス)では、水や湯を浴びると病気になると信じられてきた。ヴェルサイユ宮殿のバスタブは建設当初は使われていたが、その後はマリー・アントワネットが嫁ぐまで使われなかった。王侯貴族は入浴の代わりに頻繁にシャツを着替え、香水で体臭をごまかすようになり、これが南仏のグラースで香水産業を発展させるというおまけがついたが、産業革命により都市化が進むと同時に、パリなどの大都市部の公衆衛生の悪化の原因の一つとなり、病気にかかる人が多くなり、それを受けて、ヨーロッパでは医学の進歩に伴い、衛生という概念が生まれ、「入浴」はむしろ健康に良いと見なされるようになり、1875年にイギリスで「公衆衛生法」ができ、入浴が奨励されるようになった。また、伝統的に入浴の習慣を持っていたユダヤ人が、ペストや病気に中々感染しないのを見て、ヨーロッパに風呂が浸透するきっかけにもなり、徐々にバスタブによる入浴が行われるようになった。

 更に19世紀にイギリスでシャワーが発明されると、以後は経費も時間もかからない、簡便で且つ清潔さを保つ風呂ということでヨーロッパだけでなくアメリカでもシャワー入浴法が発展していく。

 コンパクトな浴室が定型として確立するのは1920年代のことで、ホーローびき鋳鉄製のバスタブが機械生産され、バスタブの大きさが浴室の大きさを決めるという方向に発展していく。現在は湯の出るシャワーと、湯で身体を洗う浅いバスタブ、湯の出る洗面所、そして水洗トイレが組み合わされた個室型の浴室が世界を制覇したのである。

 ● 日本の風呂の歴史
 日本でのお風呂の歴史は、6世紀に仏教とともに中国から伝わったといわれています。仏教では「お風呂に入ることは七病を除き、七福が得られる」と説かれ、健康に良いと理解されていました。以来、寺院では「体を洗い浄める」大切な業として浴堂が備えられるようになり、もともとは僧尼のための施設であったが、浴堂のない庶民にも入浴を施したことから、お風呂に入る習慣が始まったとされています。特に光明皇后が建設を指示し、貧困層への入浴治療を目的としていたといわれる法華寺の浴堂は有名である。当時の入浴は湯につかるわけではなく、薬草などを入れた湯を沸かしその蒸気を浴堂内に取り込んだ蒸し風呂形式であった。『枕草子』などにも、蒸し風呂の様子が記述されている。風呂は元来、蒸し風呂を指す言葉と考えられており、現在の浴槽に身体を浸からせるような構造物は、湯屋・湯殿などといって区別されていた。

大仏様で有名な東大寺には、多くの学僧や僧侶の心身を清浄にするため、1282年に寺院として始めての湯屋が作られた。現存最古の浴槽、東大寺の大湯屋は、約1000リットルの大釜でお湯を沸かし「鉄湯船」と呼ばれる浴槽(2000〜3000リットル)にお湯を供給する給湯方式が採用されていた。

平安時代、上流公家の入浴回数は、普通1ヶ月に4〜5回だったそうです。他の日は行水をしていたとされることから、少なくとも上流の公家達は、2、3日おきにお風呂を使っていたことになります。
「明月記」には、寛喜三年(1231年)、関白藤原道家親子が、自分の別荘に有馬の湯を、毎日牛車で200桶も運ばせて、入浴していたという記述があるそうです。
次第に宗教的意味が薄れ、衛生面や遊興面での色彩が強くなったと考えられている。

浴槽にお湯を張り、そこに体を浸かるというスタイルがいつ頃発生したかは不明である。古くから桶に水を入れて体を洗う行水というスタイルと、蒸し風呂が融合してできたと考えられている。この入浴方法が一般化したのは江戸時代に入ってからと考えられている。戸棚風呂と呼ばれる下半身のみを浴槽に浸からせる風呂が登場。慶長年間の終わり頃に、すえ風呂、または水(すい)風呂と呼ばれる全身を浴槽に浸からせる風呂が登場した。
また、江戸時代には「御殿湯」といって、熱海の湯を人足が担いで江戸城まで運んでいたそうです。

江戸時代まで「お風呂」と「湯」は区別されていたそうです。
「お風呂」とは、釜に湯を沸かし、その蒸気を浴槽内に送り込み、熱い水蒸気により身体の垢を浮き上がらせて、適当な時間に室外に出て笹の葉などで、身体を叩いたり、なでたりして垢を落とし、近くに用意したぬるま湯や冷水で身体を充分に洗うというもので、「湯」とは、今日一般の家風呂や銭湯と同じであったそうです。
五右衛門風呂とはカマドを築いて釜をのせ、その上に桶を取り付け、底板を浮き蓋とし、その板を踏み沈めて入浴します。
五右衛門風呂の名前の由来は、豊臣秀吉が石川五右衛門をかまゆでの刑にしたという俗説から生まれたのだそうです。
五右衛門風呂は底が鉄製なのに対して、長州風呂は全体が鉄製です。現在では長州風呂も五右衛門風呂として一般的に呼ばれています。

純粋な公衆浴場「銭湯」が登場したのは江戸時代といわれています。
家康が江戸入りした翌年1591年には、江戸に湯屋が開業しているそうです。
小屋の中に石を多く置き、これを焼いて水を注ぎ湯気を立てる。その上にすのこを置いて入る蒸気浴であったそうです。今で言うサウナのようです。これは、江戸の街の建設に携わる出稼ぎの庶民、労働者のニーズに応えるものであったようで、なかなか好評だったそうです。
蒸し風呂から今日の銭湯に変わる前に「戸棚風呂」というお風呂ができました。
その構造は、蒸し風呂の底に湯をいれ、下半身を湯に浸し、上半身を蒸気で蒸しました。浴槽の外側を破風屋根の小屋で覆い、三方を羽板で囲んでしまいます。一方の入り口のみは開いていて、上から半分位のところまで板戸のようなものが作られました。その板戸には、三保の松原や牡丹に唐獅子などの絵が描かれていたそうです。そして、その左右の柱には漆喰や金色の金具が巻いてあり、すこぶる美しかったそうです。
この入り口のことを「柘榴口」と呼んでいたそうです。お風呂の浴槽に入る客は、この板の低い入り口から頭を下げて入り、1、2歩先に進みます。そこには2m70cm四方で湯量が少なくてすむように浅くした浴槽があります。
内部は、入り口からの光線しかなくて、お風呂の中は、こもった蒸気で暗く、人の顔もわからない状態だったようで、風紀上問題も多く、人が殺されていても分からないなんていうこともあったようです。

銭湯ができた当初は、お風呂は混浴で男湯・女湯の区別はなかったということです。
老中松平定信による寛政の改革(1791年)、水野忠邦の天保の改革(1842年)などで混浴は禁止されたそうですが、徹底できなかったようで、明治時代になっても混浴は続いていたそうです。
また、当時から薬湯専門の湯屋もあったそうで、柚湯や菖蒲湯など利用していたそうです。今でいう「ハーブ風呂」です。
そして、銭湯は流行に敏感な江戸っ子達の社交場でもあったようで、様々な銭湯文化が生まれました。その頃から日本では、入浴という習慣が庶民の間で根づき、世界に類を見ない「風呂好き国民」となったといえるでしょう。

明治10年ごろ、東京神田に新しい銭湯ができました。
この銭湯は浴槽を板間に沈めて湯をたっぷりと入れ、さらに流し場の天井を高くして湯気抜き窓を設けた、従来の銭湯と比べてかなり開放的なものでした。
これより銭湯は明るく清潔になっていきました。
明治17年、警視庁は柘榴口式浴場を風紀上の問題から禁止したため、現在の銭湯の形へと変わっていきました。

明治時代の日本人のお風呂の入り方に関する、B.H.チェンバレンという人の手記によりますと、「毎日下着を替えるヨーロッパのやり方からみると、お風呂から上がると、また汚い着物を着る日本人のスタイルは、不潔に感じる人もいるが、しかし、日本の下層階級の人でも、いつもお風呂に入り、身体をゴシゴシ洗っているから、日本人の着物は外部は埃で汚れていても、内部が汚いということは考えられない。日本の大衆は世界でも最も清潔である。」と言っています。

現在では、お風呂でテレビを見たり、お風呂で音楽を楽しんだりと、様々なスタイルでお風呂タイムを満喫できますし、入浴する事でのダイエットや健康にも、色々な方法や知識が広がっています。
 ● 中国・台湾の風呂について
執筆中
楊貴妃が風呂を使ったとされる華清池(中国)

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