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■インフルエンザの話 |
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誰だってインフルエンザや風邪には、かかりたくないですよね、最も効果があるのは、外へ出かけないこと、人と会わないこと。でも現実問題として、そんなことは無理。
試験など大事なイベントの直前で、絶対にかかりたくない時って、外を歩いている人が全員、保菌者や敵に見えたり。電車に乗っている時に、周囲で誰かが咳をすると、本能的にその人から少しずつ離れていったり、なんて経験も皆さんも多分ありますよね。
我々は、普段生活している時には、毎日沢山のウィルスや病原菌を体内に取り込んでいます。でも、身体が健康で、抵抗力があれば、そんなものは少しも恐くはありません。免疫という作用で、体内に侵入した菌やウィルスを片っ端から撃退してくれているのです。我々の身体って、本当に良く出来ているのです。でも、もし疲れていたり、不規則な生活だったりで体力が落ちている時など、つまり身体の防御システムに隙が出来た時には、すぐに風邪を引いたり、他の病気になったりしてしまいます。
かかってしまった場合は、医者や薬、健康食品の力を借りることになり、また苦しい思いもしなければなりません。そうならない為にも、普段から健康に気を使い、規則正しい生活とバランスの取れた食事を心掛けていれば、普通は問題ないはずです。
このコーナーでは、インフルエンザのことを少しまとめてみましたので、良かったら肩の力を抜いて、少しくつろいで行って下さい。
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■インフルエンザの歴史 |
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インフルエンザはとても古くからある病気で、インフルエンザと人との関わりはとても古く、古代エジプトにはすでにインフルエンザと見られる流行性疾患の記録が残っています。
ヨーロッパ最古の記録は、紀元前427年、古代ギリシアの軍人ツキジデスが、「紀元前430〜427年、アテネにおける大疫病によりアテネ人に多数の死者が出て、アテネとスパルタとのペロポネソス戦争が終結した」という記録を残しています。最近の研究で、この大疫病はインフルエンザだった、と発表されました。紀元前412年のヒポクラテスによる記録には「ある日突然に多数の住民が高熱を出し、震えがきてさかんに咳が出るようになった。たちまち村中にこの不思議な病が拡がり、住民たちは脅えたが、あっという間に去っていった。」という、まさにインフルエンザを示唆する症状がみられます。
11世紀には明らかにインフルエンザの流行を推測させる記録が残っており、16世紀にはすでにインフルエンザという名で呼ばれていたようです。
日本では、862年の「三代実録」という書物に、「1月自去冬末、京城及畿内外、多患、咳逆、死者甚衆・・・(1月から冬の終りにかけて京や畿内などで多くの者がインフルエンザに罹り、死ぬ者多し)」とあります。医学書では日本に現存する最古といわれる「医心方」(丹波康頼著/984年)に咳 治療の項があり、“咳逆”を「之波不岐(シハブキ)」と訓読しています。1008年頃発刊された源氏物語の「夕顔」の項に「この暁よりしはぶきやみに候らん、かしらいと痛くて苦しく侍れば・・・・。」とあり、これを作家の瀬戸内寂聴氏は現代語版で「朝から風邪をひいて、頭が痛くて気分が悪い・・・。」と表現しています。また大鏡(1010年)には、「一条法王がしはやぶきやみのため37歳で死去された」とあり、増鏡(1329年)には「今年はいかなるにか、しはぶきやみはやりて人多く失せたまうなかに・・・・(今年はどうしたわけかインフルエンザが流行り、多くの人が死んだ)。」と書かれています。平安・鎌倉時代には、咳逆(しはぶき)・咳逆疫(しはぶきやみ)という疾患名があり、今日でいうインフルエンザを示すものです
江戸時代に入ると、記録は詳細になり、インフルエンザを示す疾患を巷では「風」「はやり風邪」と呼んでいたようです。流行場所から、谷風(1784年、横綱 谷風梶之助が罹患)、薩摩風(1802年)、琉球風(1832年)、アメリカ風(1856年、開国により下田に上陸した米人が流行させたという流言による)などと名付けられたという記録が残されています。医学書では、統一された用語はなく、“傷風”、“冒寒傷冷毒”、“天行感冒”、“時気感冒”などが著者により異なって使われていました。
日本では古くから、悪い風が吹いて人々を病気にするという認識がありました。 その後もさまざまな時代で、インフルエンザの流行によるとみられる膨大な数の死者の記録が残っています。
幕末にはインフルエンザの名称が蘭学者により持ち込まれ、流行性感冒と訳されました。
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■「インフルエンザ」の語源 |
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「インフルエンザ」の語源は、16世紀のイタリアで名付けられました。当時は感染症が伝染性の病原体によって起きるという概念が確立しておらず、何らかの原因で汚れた空気によって発生するという考え方が主流でした。当時のイタリアの占星術師たちが、冬になると毎年のように流行し、春を迎える頃になると終息する周期性から、星の運行や寒気の影響によって発生するものと考え、「影響」を表すラテン語(influenctiacoeli)にちなんでイタリア語influenza(英influence)と名付けたことに由来すると言われています。この言葉が18世紀に英国で流行した際に英語に持ち込まれ、その後世界的に使用されるようになりました。なお、日本語となっている「インフルエンザ」は英語読みであり、イタリア語での読みは「インフルエンツァ」です。英語の口語では'flu'(フルー)と略されています。
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■インフルエンザウイルスのタイプと予防法 |
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インフルエンザウイルスにはA、B、Cの3型があり、このうちA型とB型がヒトのインフルエンザの原因になります。その理由はB型は遺伝子がかなり安定しており、免疫が長期間続き、C型は遺伝子がほとんど変化しないので免疫が一生続くのに対して、A型は時々遺伝子が大きく変異するので、時折パンデミックを起こすからです。
A型とB型のウイルス粒子表面にある蛋白質でできた突起が2種類あり(HとN)、この突起の組み合わせがH1〜H16型,N1〜N9型まであります。このHまたはHA(ヘマグルチニン=赤血球凝集素)とNまたはNA(ノイラミニダーゼ)という糖蛋白は変異が大きく、これがインフルエンザの種類が多い要因となっています。
A型インフルエンザウイルスにはHAとNAの変異が特に多く、これまでHAに16種類、NAに9種類の大きな変異が見つかっており、その組み合わせの数の亜型が存在しうるといいます。亜型の違いはH1N1 - H16N9といった略称で表現されています。
ヒトのインフルエンザの原因になることが明らかになっているのは2010年現在で「Aソ連型」として知られているH1N1、「A香港型」として知られているH3N2、H1N2、H2N2、の4種類ですが、この他にH9N1、高病原性トリインフルエンザとして有名になったH5N1、そしてH7などのいくつかの種類がヒトに感染した例が報告されていますが、ヒトからヒトへの伝染性が低かったため大流行には至っていません。
しかし、いずれ新型インフルエンザが定期的に大流行を起こすことは予言され続けています。
ヒトに感染しない亜型のウイルスは鳥類や他の哺乳動物(既に確認されている動物インフルエンザウイルスは豚、鳥、馬、犬、猫、鯨、アザラシ、ミンク、トラなどがあります)を宿主にしていると考えられています。
犬や猫,牛に感染するA型インフルエンザはこれまで報告されていませんでした(最近になってトラや猫で感染の報告がありました)。
特に水鳥ではHAとNAの組み合わせがすべて見つかっており、宿主として重要な地位を占めると考えられています。同じH1N1であってもさらに細かな変異によって抗原性や宿主が異なり、年によって流行するウイルスの型は異なります。
●<インフルエンザの型と病原性> |
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H1
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H2
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H3
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H4
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H5
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H6
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H7
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H8
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H9
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H10
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H11
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H12
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H13
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H14
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H15
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H16 |
N1
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ブタ
ヒト
クジラ
鶏
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鶏
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鶏
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鶏
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鶏
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鶏
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鶏
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N2
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鶏
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ヒト
鶏
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ブタ
ヒト
鶏
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鶏
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鶏
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鶏
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鶏
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N3
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アザラシ
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N4
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鶏
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鶏
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鶏
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鶏
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鶏
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鶏
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鶏
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ミンク
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N5
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アザラシ
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N6
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ブタ
アザラシ
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N7
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N8
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鶏
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鶏
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鶏
ウマ
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鶏
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鶏
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鶏
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鶏
ウマ
アザラシ
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N9
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クジラ
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※カモには全ての型が感染します。
※赤色で示したなかの一部に特に病原性の高い高病原性鳥インフルエンザが含まれます。
予防法としては、外出時はマスクやゴーグルなどを装着し、帰ってきたらそれらは外で処分してから家の中に入るようにします。屋外から屋内に入る時にはうがいと手洗いを必ず行う、といったことが推奨されていますが、RNAウイルスそのものには手洗いは特に意義はないといわれています。
インフルエンザウイルスは、細胞内寄生体なので細胞外では短時間しか生存できません。紙幣、ドアの取っ手、電灯のスイッチ、家庭のその他の物の表面上で生存可能な時間は、条件によってかなり異なりますが、プラスチックや金属のように、多孔質でない硬い物の表面でかつ、酵素が完全に除去された環境、つまり無菌状態では、実験では1〜2日間生存させたのが最長記録です。また無菌状態の乾燥した紙では、約15分間生存できます。しかし、手などの皮膚の表面には多量の酵素が存在するため、RNAウイルスはもっと短時間しか生存できず、5分間未満で死滅するといいます。
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■インフルエンザ病原体発見の軌跡 |
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病理、薬理学界では、1876年のコッホによる炭疽菌の発見以降、さまざまな感染症についてその病原体が分離・発見されていきましたが、インフルエンザ病原体の発見は困難をきわめたといわれています。
1889年〜1900年にインフルエンザ(H2N2)が流行し、この流行の時に、北里柴三郎らが1892年、インフルエンザ患者の気道から病原体の候補となる細菌を分離し、インフルエンザ菌(Haemophillus influenzae)と名付けましたが、コッホの原則に基づいた証明には至りませんでした。当時はまだウイルス自体が認知されておらず、ディミトリ・イワノフスキーによってウイルスの存在が初めて報告されたのが、北里の発見と同じ1892年のことでした。
1918年から1919年にかけてのスペインかぜが発生し大流行。この時、候補となる細菌やウイルスが報告されたものの、マウスやウサギなどの一般的な実験動物で病気を再現することができなかったため、その病原体の証明には誰も成功しませんでした。
1933年、ワシントンで発生したインフルエンザの患者から分離されたウイルスを使って、フェレットの気道に感染させてヒトのインフルエンザとよく似た症状を再現できることが実験で示されました。この実験によってインフルエンザの病原体がウイルスであることが明らかとなり、インフルエンザウイルス(後にA型インフルエンザウイルス)と名付けられました。後に、この当時の流行株に対する抗体が、スペインかぜのときに採取されていた患者血清から検出され、スペインかぜの病原体がこれと同じもの(H1N1亜型のA型インフルエンザウイルス)であることが明らかになりました。
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■20世紀に入ってからの世界的な大流行(パンデミック) |
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インフルエンザの流行が科学的に立証されているのは1900年頃からで、20世紀には3〜4回のインフルエンザの世界的な大流行(パンデミック)がありました。(データによって若干の違いがあります)。
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1
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1918〜1919年(スペインかぜ)(A/H1N1) |
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スペインかぜは人類が最初に遭遇したインフルエンザの世界的な大流行となりました。そして、その規模から見ても、感染症のみならず戦争や災害などすべての死因の中でも、もっとも多くの人間を短期間で死に至らしめた過去最大の記録的なもので、「黒死病」以来の全世界的な歴史的疫病でした。
先ず1918年3月に米国カンザス州軍訓練基地でアメリカ兵の間で流行しはじめ、次いでアメリカ軍の第一次世界大戦参戦とともに大西洋を渡り、5月から6月にかけてはヨーロッパで流行しました。第2波は1918年秋にほぼ全世界中で同時に起こり、病原性がさらに強まって重症な合併症を起こし、死者が急増しました。第3波は1919年春から秋にかけてで、やはり世界的に猛威を振るいました。日本ではこの第3波の被害が一番大きかったといわれます。
世界の感染者数は6億人、死者は最終的には4,000万人とも5,000万人とも言われます。当時の世界人口は12億人程度と推定されるため、全人類の半数がスペインかぜに感染したことになります。
日本でも当時の人口5,500万人に対し人口の約半数2380万人が罹患し、約40万人の犠牲者が出たと推定されています。
アメリカでは50万人が死亡しました。
詩人アポリネール、社会学者マックス・ヴェーバーなどが亡くなっており、日本でも、元内務大臣の末松謙澄、東京駅を設計した辰野金吾、劇作家の島村抱月、大山巌夫人の山川捨松、皇族の竹田宮恒久王、軍人の西郷寅太郎などの著名人がスペインかぜで亡くなっています。
インフルエンザの免疫が弱い南方の島々では、島民がほぼ全滅するケースもありました。
※死者数は、第一次世界大戦の戦死者をはるかに上回り、この大流行が第一次大戦終結の遠因になったともいわれます。
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2
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1957年(アジアかぜ)(A/H2N2) |
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1957年4月に香港で始まり、東南アジア各地、日本、オーストラリア、さらにアメリカ、ヨーロッパへと急速に広がりました。発端は中国南西部と考えられています。死亡者数はスペインかぜの1/10程度でした。日本では約300万人(100万人)が罹患し、5,700(7,700)人の死者が出ました。肺炎による死亡者の中で黄色ブドウ球菌の二次感染が注目されました。
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3
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1968年(香港かぜ)(A/H3N2) |
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1968年6月に香港で爆発的に流行し、8月に台湾、シンガポールなど東南アジアへ、9月に日本、オーストラリア、12月にアメリカでピークを迎えましたが、ヨーロッパではあまり流行しませんでした。香港では6週間で50万人が罹患し、全世界で56,000人以上の死者を出しました。日本では14万人が罹患、2,000人が死亡。翌1969年の第2波で約3700人が死亡したとあります。
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4
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1977年5月(ソ連かぜ)(A/H1N1)スペインかぜと同じ型のウイルス |
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1977年5月に中国北西部から始まり、12月までにシベリア、西部ロシアへ広がり、日本で流行しました。さらに翌78年には、アメリカ、ヨーロッパ、オセアニア、南米にまで拡大しました。1950年前後に流行したイタリアかぜと同じウイルスだったので、ある年齢以上の人は抗体を持っていました。そのため、流行当初は小児と10代の若年層に限られていましたが、連続変異によって他の年齢層にも広がりました。
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1998年に、香港でH5N1という新しいインフルエンザウイルスが出現しましたが、香港中の鳥を屠殺したため、またヒト-ヒト感染もおこらずパンデミックには至りませんでした。 |
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2009年春、新型インフルエンザ(A/H1N1)のパンデミック |
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インフルエンザウイルスは、その後も少しずつ変異をしながら流行を繰り返しています。最近毎年流行しているのは、Aソ連型(A/H1N1)、A香港型(A/H3N2)、およびB型の3種類のウイルスによって複雑な流行の様子が見られていました。
そんな中で、2009年春、新型インフルエンザ(A/H1N1)が発生し、世界で広まりました。
当初、ウイルスの遺伝子が豚インフルエンザ由来のため「豚インフルエンザ」と呼ばれました。
現在、鳥インフルエンザウイルス及びヒトインフルエンザウイルスの遺伝子も持つことが確認されており、WHO(世界保健機構)より「パンデミック(H1N1)2009ウイルス」と命名されました。
米国CDCの報告によると、2009年5月の時点では季節性インフルエンザと同様に感染力は強いものの、多くの患者は軽症のまま回復しています。一方で、喘息などの慢性の病気を持っている方を中心に重症化する例が報告されています。
日本などの温帯では、季節性インフルエンザは冬季に毎年のように流行します。通常11月下旬から12月上旬頃に最初の発生があり、12月下旬に小ピーク。学校が冬休みの間は小康状態で、翌年の1〜3月頃にその数が増加しピークを迎えて、4〜5月には流行は収まるパターンです。
日本では高齢化が進行している中、特別養護老人ホームにおける集団感染の問題を抱え、インフルエンザによる死亡者の約80%以上を高齢者が占めています。乳幼児ではインフルエンザに関連していると考えられる急性脳症が年間100〜200例報告されています。
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■スペインかぜの分析と教訓 |
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インフルエンザの歴史で、過去最大のものは世界規模で甚大な死者を記録した1918年に始まったスペインかぜです。ではなぜスペインかぜはこんなに短期間で大量の人間に感染したのでしょうか。まずアメリカで始まったインフルエンザに兵士が感染し、軍隊の中で大勢の別の兵士たちに伝染し、次にそれらの大勢の保菌者が同時に戦争でヨーロッパ戦線という別の場所に移動して、敵という別の組織の大勢の人間と戦うことでインフルエンザをうつし、更にその兵士たちが自宅に戻って家族にうつす、という大量感染と分散、そして新タイプのインフルエンザだったため抗体を持っていなかった、というまさに最悪のシナリオだったことがその最大の理由でしょう。
スペインかぜはどんなものだったたのでしょうか。現在、鳥インフルエンザが騒がれていますが、ネーチャー誌によると、スペインかぜも鳥インフルエンザが進化し、ヒトに感染するように変異したらしいことが最近の研究で分かってきたとの報告がありました。鳥インフルエンザは弱病原型と強病原型の2つがあり、最近アジアから東ヨーロッパで散発しているのは強病原型のインフルエンザウイルスで、死亡率は3分の1にも及んでいます。高病原性鳥インフルエンザがヒトからヒトへ伝染するようになったら、ヒトはこれに対し抵抗性を持っていませんので、文字通りアッという間に世界中に拡がることは必至でしょう。
それが実際に起こってしまったのが2009年の新型インフルエンザです。このウィルスは当初豚インフルエンザと呼ばれ、豚のインフルエンザが変異し、ヒトに感染するようになったものです。更に後の研究で、鳥インフルエンザウィルスもヒトインフルエンザウイルスの遺伝子も持っていることが判明しました。幸いに、スペインかぜの時ほどの強病原型ウイルスではなく、被害は軽かったものの、交通の発達している現代社会において、一度それが発生すると、瞬く間に全世界に広がる、ということも実証しました。これはとても大きな教訓です。
ウィルスなどに対しての我々の対応はどうしても対症療法になってしまいます。新タイプのウィルスが流行してから、それに適応するワクチンを開発する、というパターンです。ウィルスは生体の中でしか増殖できません。これまで鳥、豚、と人間以外の動物のインフルエンザウィルスが変異してヒトに感染するパターンがありましたが、それに対するワクチンを作ると、今度はそれに順応出来る新しいタイプのウィルスに進化を続けていきます。全ての生命体は、自分や子孫を維持するために、環境に順応していくことができます。ウイルスはとても原始的な生命体ですが、それ故、適応するスピードも早く、新しいワクチンに耐性を持ったタイプに進化していきます。少し詳しく説明しますと、ウィルスにはDNAウイルスとRNAウィルスがあり、インフルエンザウィルスはRNAウィルスです。DNAウイルスは増殖の際、もし間違った場合は自己修復機能を持っていて、突然変異が起きにくいのに対し、RNAウィルスは自己修復機能を持たず、突然変異が起きやすいため、大変に早く新しいウィルスに変異してしまうのです。
これまで鳥由来のウイルスが直接ヒトに感染、あるいは逆にヒト由来のウイルスが直接鳥に感染するケースは低いと考えられており、これまでに起きた二度の大変異がどうして起きたかについては、まだ完全に証明されたわけではありません。ただし有力な仮説として、鳥とヒトのウイルスの両方に感受性がある豚の体内で組み換えが起きた結果、鳥由来の遺伝子がヒト(豚)に感染する新型ウイルスを生んだのではないかと考えられています。
今回の新型と毎年流行する季節性インフルエンザが共に死亡率がとても低いことなどから、「インフルエンザは風邪の一種で、恐れる病気にあらず」と捉える人が多くなっているようですが、これは誤解です。インフルエンザの症状はいわゆる風邪と呼ばれる症状の中でも別格と言えるほど重く、区別して扱う事も多いのです。
今後も、今までのインフルエンザや、更に全く新しいインフルエンザが近い将来に大流行するのではないかといわれています。もし別の動物由来の新しいタイプのインフルエンザが、いつ進化してヒトからヒトへと伝染するようになるか分かりません。インフルエンザは今なお恐ろしい感染症であり、その脅威はますます大きくなっていると言えます。もし、ひとたび発生したならば、スペインかぜが短期間で大量の人間に感染したのと同じ条件を我々現代人は全て持っているからです。スペインかぜの時は軍と戦争、そして抗体を持っていないことでした。現代はそれと同じに大勢の人間が集まる学校、会社、そして往復の電車や飛行機、全ての条件を持っていて、更に当時よりもっと早く自由に世界中を移動することが出来る環境です。現在なら、まさにアッという間に世界規模で拡大してしまうでしょう。2009年の新型インフルの広がり方も教訓にしないといけないでしょう。いくら空港で検査して隔離しても結局は食い止めることは出来なかったのです。現在のような発達した社会の中に、もし我々が抗体を持たない新型のインフルエンザが流行したら、と考えると本当に恐いことです。インフルエンザは人類にとって危険なウイルスなのです。
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■余談 歴史上のパンデミックの話題 ペスト「黒死病」 |
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これまでパンデミックを起こした感染症には天然痘、インフルエンザ、AIDSなどのウイルス感染症、ペスト、梅毒、コレラ、結核などの細菌感染症などがありますが、やはりペスト、「黒死病」の大流行が規模などからいっても特大級のものだと思われますので、まとめて見ました。
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ペスト「黒死病」の大流行 |
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14世紀に世界を震撼させたペストが、人類史上のパンデミックを起こした感染症の筆頭でしょう。
●沿革:
ペストは中国の雲南を起源とする感染症で、感染したネズミからノミを介して伝染します。感染すると7日以内で発熱し、皮膚に黒紫色の斑点ができるところから「黒死病」と呼ばれました。まず中国で大流行し、20年程度でヨーロッパへ上陸し、14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、猛威を振るいました。
●ヨーロッパへの伝播:
先ず1320年頃から1330年頃にかけて中国で大流行し、ヨーロッパへ上陸する途中でエジプトのマムルーク朝などイスラム世界でも猛威をふるっています。この病気が14世紀のヨーロッパ全体に拡大したのは、ヨーロッパに領土を広げたモンゴル帝国によってユーラシア大陸の東西を結ぶ交易が盛んになったことが背景になっています。当時ベネチア、ジェノヴァ、ピサなどの北イタリア諸都市は、南ドイツの銀、毛織物、スラヴ人奴隷などと交換に、アジアの香辛料、絹織物、宝石などの取引で富を獲得していました。こうしたイスラムとヨーロッパの交易の中心となっていたのは、インド洋、紅海、地中海を結ぶエジプトのアレクサンドリアで、当時はマムルーク朝が支配していました。
1347年10月、ペストは中央アジアからシチリア島の港町メッシーナに上陸し、またたく間に内陸部へと拡大しました。ヨーロッパに運ばれた毛皮についていたノミに寄生し、そのノミによってクマネズミが感染し、船の積み荷などとともに、海路に沿ってペスト菌が広がったのではないかと推定されています。1348年にはアルプス以北のヨーロッパにも伝わり、全ヨーロッパで猛威を振るいました。
●死者数:
正確な統計はありませんが、一説では全世界で8,500万人が死亡したといわれます。ヨーロッパでは約2,000万から3,000万人前後といわれ、この数字は当時のヨーロッパの人口の3分の1から3分の2にあたります。イギリスやフランスでは過半数が死亡したと推定されています。
ペスト菌の存在がわからなかった当時は、大流行のたびに特定の人びとに原因を押し付け、魔女狩りがおこなわれたり、特にユダヤ教徒をスケープゴートとして迫害する事件が続発しました。
清教徒革命を経て王政復古後のロンドンで1665年に流行したペストでは7万人が亡くなっており、のちにロビンソン・クルーソーで有名なダニエル・デフォーは『疫病の年』(1722年)を著して当時の状況を克明に描いています。
●その後、先進諸国では19世紀までにほとんど根絶されましたが、発展途上国ではなお大小の流行があり、中国の雲南省では1855年に大流行し、インドでは1994年に発生し、パニックが起きたほどでした。
日本では明治になって国外から侵入したのが初のペスト流行であるとされています。
●ルネサンスの著名な作家ボッカッチョが著した『デカメロン』(1349〜1353年)は、ペストを逃れて郊外に住んだフィレンツェの富裕な市民男女10人が、10日間にわたり、1日1話ずつ語り合うという設定で書かれており、人間の欲望が素直に表され、人間解放の精神にあふれた人文主義の傑作とされています。
『デカメロン』には、
さて、神の子の降誕から1348年目の歳月が流れたころ、イタリアのすべての都市の中で最も美しいフィレンツェの町に、恐ろしい悪疫が流行しました。ことの起こりは、数年前東洋の国に始まって無数の命を滅ぼしたのち、休むことなく次から次へと蔓延して、とうとうこの西洋の国へも伝染して来たものでございました。
で書き出されており、ペストの流行についてふれています。
成すすべがなかった当時の人たちにとっては本当に恐く、恐怖におののいたことでしょう。幸いに助かったボッカッチョやデフォーは、きっとこの事実を後世に残しておきたい、という使命感もあって、それを作品にしたのではないでしょうか? それくらい、自分も罹って命を落とすかもしれない、という大きな恐怖にヨーロッパ中の人々を突き落とした大きなパンデミックだったんだと思います。
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